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日本はなぜ学歴社会なのかー学歴差別の問題

Blog post 003

 

学歴差別

教師:どうして勉強する必要があるの? 
生徒:良い学校に進学するためです。 
教師:どうして良い学校に行きたいの? 
生徒:良い会社に入るためです。 
教師:良い会社に入ってどうするの? 
生徒:それは・・・ 
教師:良い会社に入っても、そこに一生いるとは
   かぎらないでしょ。
   途中で嫌になるかもしれない。
   先輩にいじめられるかもしれない。 
   今の時代、どの会社も経営危機で、
   いつリストラ、倒産するかもわからない。
   病気するかもしれない、
   怪我するかもしれない。
   そんな先のことばかり考えて何になるわけ? 
生徒:でも、お母さんが将来のために勉強しろって
 
 
これは、日テレ「女王の教室」というドラマの教師役の天海祐希と生徒のやりとりですが、なかなかメッセージ性の強いドラマだったと記憶しています。 
さて、この会話からも見えてきますね。 
そう、「学歴」に対する考え方です。 
 
 
日本は学歴社会といわれて久しい。 
近年、学歴社会の弊害が指摘され、一部の企業では学歴を問わない採用を行っているところもあります。
 
 
しかし、学歴不問をうたっている会社でさえ、現実的には大学別の採用を行ったり、一流といわれる大学出身者を優先して採用したりしているケースは少なくありません。 
 
 
そもそも学歴不問などとわざわざ喧伝するあたりに、本音では学歴にこだわってことが見え隠れしています。
いくら学歴不問とは言いながら、履歴書に学歴が記載されていれば、どこの大学出身かは必ずチェックされ「不問」にはならないのが心情です。
 
 
日本が学歴社会なのは教育に対する考え方が、諸外国とは全く異なっていることに起因していると考えられます。 
 
 
諸外国では、教育を受けるとその教育内容にあったスキルと生産性が身についていると解釈されます。
 
 
例えばアメリカでは、大学で統計学を学んだ人間は、統計に関する仕事ができると認識されます。 
 
 
したがって学歴と賃金は基本的に比例しており、年齢が異なっていても基本的なスキルが同じであれば賃金は変わらない。 
 
 
つまり、教育は今、目に見える形で知識やスキルを身につけたことの証明ということになります。
 逆に言えば、不透明な将来のことは考えず、今、何ができるのかしか見ないという合理的な考え方です。 
 
 
ところが日本の場合には、教育に対する概念はまったく異なっています。
教育は将来の可能性を証明するものという考え方があります。 
一流大学を出た人は、専門分野が何であろうが、三流大学を出た人よりも将来高い能力を発揮すると認識されます。 
 
 
したがって、日本では極端に言えば「偏差値いくつの大学を出たか」だけが問われます。
 
 
今、どんな能力があるかではなく、将来のポテンシャルが評価されるので、成果に関係なく高学歴者の出世は優先され、低学歴者よりも賃金が一律に高いという現実があります。 
 
 
一つの例として、ある組織の俗にいう「キャリア組」と呼ばれる人達を想像してみると分かりまが、組織に採用される前から将来を有望視され、他の者とはまったく別のルートを歩むことが保証されます。 
 
 
今、何ができるかは一切問われない。
「勝ち組」と「負け組」がはじめから決まっている訳です。 
考えようによって、これは「異常」なことですね。 
その人間が将来必ずや成果を上げるということが予見できないのに、最初から他の者より優遇され人生がスタートする。 
日本人は不思議に思わないかもしれませんが、世界からみたら確実におかしいのです。 
 
 
もちろん、この背景には日本独特の競争を避け「和」を重視する文化や既得権維持という欲求があるのでしょう。 
 
 
常に成果を競いポジションを奪い合うより、受験という最初の競争で勝ち取った(得られた)現在の状態を固定化した方がよいという考え方があるのです。 
 
 
学歴を重視している会社は、上記のように仕事の成果についてはほとんど興味を持っていません。 
将来のポテンシャルか、現状の秩序の維持が最優先されます。
このような会社で実績を上げて出世しようというのは、そもそも根本が違っているから無駄なのです。 
 
 
日本にもアルバイト社員が社長になった会社や、中学卒業のたたき上げでトップにまで登り詰めた人など、真に成果や実力だけで判断する企業もたくさんあります。 
 
 
・・・ちょっと極端な話になってしまいましたが、さて、あなたの会社はどうでしょうか。